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最高裁判所第一小法廷 昭和41年(オ)1317号 判決 1969年4月03日

上告人

吉岡ツヤ

代理人

野間彦蔵

被上告人

鄭基台

ほか七名

主文

原判決を破棄する。

本件を仙台高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人野間彦蔵の上告理由第一点について。

被上告人らが鄭基洪と上告人との婚姻を無効とすることを訴求する法律上の利益を有する旨の原判決(その引用する第一審の判決を含む。以下同じ)の判断は、その挙示する証拠関係に照らして首肯することができるから、原判決に所論の違法はない。論旨引用の判例は、いずれも本件と事案を異にして本件に適切でない。したがつて、論旨は採用しえない。

同第二点について。

原判決の確定した事実によれば、本件婚姻届は、訴外吉岡己智夫が昭和四〇年四月五日午前九時一〇分前後に盛岡市役所に持参し、係員に交付して受理されたものであり、一方、鄭基洪は、昭和三九年九月頃より肝硬変症で入院していたが、昭和四〇年四月三日頃より病状が悪化し、同月四日朝から完全昏睡状態に陥り、同月五日午前一〇時二〇分死亡するに至つたというのであつて、原審は右の状態の下における届出は意思能力ない者の届出として無効であるとしたのである。しかしながら、本件婚姻届が鄭基洪の意思に基づいて作成され、同人がその作成当時婚姻意思を有していて、同人と上告人との間に事実上の夫婦共同生活関係が存続していたとすれば、その届出が当該係官に受理されるまでの間に同人が完全に昏睡状態に陥り、意識を失つたとしても、届書受理前に死亡した場合と異なり、届出書受理以前に翻意するなど婚姻の意思を失う特段の事情のないかぎり、右届書の受理によつて、本件婚姻は、有効に成立したものと解すべきである。もしこれに反する見解を採るときは、届書作成当時婚姻意思があり、何等この意思を失つたことがなく、事実上夫婦共同生活関係が存続しているのにもかかわらず、その届書受理の瞬間に当り、たまたま一時的に意識不明に陥つたことがある以上、その後再び意識を回復した場合においてすらも、右届書の受理によつては婚姻は有効に成立しないものと解することとなり、きわめて不合理となるからである。しかるに、原判決は、婚姻届受理当時、鄭基洪が完全な昏睡状態に陥り意思能力がなかつたことが明らかであるといい、その一事を前提として同人には婚姻をなす合意があつたとはいえず、本件婚姻は無効であると判示したものであるから、原判決は、所論のように、法律の解釈適用を誤つた違法があるものといわなければならない。したがつて、原判決は、破棄を免れず、本件婚姻届が鄭基洪の婚姻の意思に基づいて作成されたか、その後届書が受理されるまでに翻意するなど婚姻の意思を失う特段の事情があつたかどうか等の各点につき、さらに審理の必要あるものと認め、本件を原審に差し戻すのを相当とする。

よつて、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(松田二郎 入江俊郎 長部謹吾 岩田誠 大隅健一郎)

上告代理人野間彦蔵の上告理由

〈前略〉

第二点 仮りに被上告人等の本訴請求につき確認の利益乃至必要があるとするも、なお、原判決には、婚姻の成立要件に関する規定の解釈を誤り、不法に本件婚姻の無効を認定した違法がある。〈中略〉

(三) 然れども、上告代理人は書面による婚姻は婚姻の合意を表示する婚姻届書の作成とその届出(提出及び受理)によつて成立し、同時に効力を発生するものであるが、婚姻の合意は届書の作成により成立し、その後、その届出前に当事者の一方又は双方が意思能力を失うことあるも婚姻の成立及びその効力の発生に何等の影響を及ぼすべきでないものと信ずる。

(イ) 婚姻は婚姻をする当事者間の合意を本体とする(我妻四一頁二(1))。この婚姻の合意は契約であるから、申込と承諾とから成る。例えば甲男が乙女と婚姻することを決意してその申込の意思表示を乙に対して発し、これを受領しその内容を了知した乙女もこの申込に応じ甲男と婚姻をすることを決意してその承諾の意思表示を甲に対して発し、甲がこれを受領すれば甲男と乙女間の婚姻の合意は成立し、完成するのである。即ち婚姻の意思は婚姻の相手方に対して相互に表示され受領されるのである。(対話者の関係ではこの発信・到達・了知がすべて同時に成立するのが普通である。)法律上の婚姻には「届出」が必要とする(民法七三九条)からといつて、この婚姻の本体たる婚姻契約の申込及び承諾の意思表示の相手方は相互の当事者であつて、戸籍吏でないことはいうまでもない(我妻同所)。(原判決が盛岡市の戸籍吏の本件婚姻届の受理につき民法第九七条第二項の適用は許されないとするのは(原判決四枚目裏)、この意味で正当である。婚姻が要式行為であることとは何の関係もない。)

〈中略〉

(ホ) 而して民法九七条二項に、「表意者が通知を発した後に死亡し又は能力を失うも意思表示はこれがために其効力を妨げらることなし」とあり(これと同趣旨のドイツ民法一三〇条二項の規定は広く一般に類推適用されるといわれる――エンネクセルス民法総則第二巻一九六〇年版九八三頁)、意思能力の喪失は撤回と異なり、発信された意思表示の効力の発生を阻止しない。届出前に婚姻の当事者が昏睡状態に在つたから婚姻意思は無効であるということは、昏睡状態を意思表示の撤回と同一視するものである。(固より、婚姻は生存者間でのみなされるものであるから、届書の受理前に当事者の一方又は双方が死亡すれば婚姻は成立しないことはいうを俟たない。)

若しそれ、あくまで婚姻届書受理時においても引続き積極的に婚姻の意思が存続していなければならないとすれば上記裁判官の補足意見にある如く届書の提出を第三者に委託し、本人が内心、変心し婚姻の意思をなくしていたとき、或は受理時にたまたま、他事に紛れてその事を全く忘却し又は熟睡していたなら仮令届書が受理されたとしても婚姻は終に成立しないことになるであろう。

又届書に届出事件の性質及び効果を理解するに足りる能力を有することを証する診断書を添付すれば禁治産者でも届出をすることができることになつているが(戸籍法三二条二項)、届出の場所ででも診察しない限り、届出における意思能力は終に不明であるということになるであろう(加藤一郎・身分行為と届出、穂積先生追悼論文集五三〇頁四、参照)。

畢竟、第三者が婚姻当事者の委託を受けて、その届書を作成して提出するも戸籍吏がこれを受理すれば婚姻が有効に成立することを認める以上、婚姻の合意が成立する時、即ち届書作成の時に意思能力があるをもつて足るとするのが論理的の帰結である。そうでなければ総ての場合には通じないことになる許りでなく、不法に婚姻の合意を制限し、憲法第二四条所定の基本的人権を侵害することになるであろう。〈以下略〉

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